くらやのはじまり
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話せば長くなるんですよ、これが。

 高校卒業後、音楽関係の仕事に就きたいと思い、上京したがなんだかパッとしなくて飲食関係のアルバイト中心に8年間過ごした。さすがにそれだけ飲食業に携ると食を根源から突詰めたくなる。
 長男が結婚し実家を離れたため次男の私に実家の今後が期待される。実家には両親と寝たきりの祖父が。
 雰囲気的に「ゆくゆくは実家に戻って食の根源の一つである農業をやりたいなぁ」というカンジになったところでバタバタと実家に戻ることになった。
 やりたいこととはかけ離れた実家の部品製造業。なんとなく年老いた両親よりも自分に期待がかかり、とりあえずその仕事を始める事になった。土日にちょっとだけ家庭菜園などしてみたが、農業は思いのほか重労働でいつの日か「農業よりも製造業で生涯を終えるのかなぁ」なんて思ってもいた。両親には製造業を離れてもらい祖父から受け継いだわずかばかりの林檎園の経営をやってもらうことにして。
 しかし、製造業もこの不景気で良いわけもなく幾度となくピンチに立たされ、乗り越えたと思ってもまたピンチ。そんな調子だから3年間で嫌気が差しやめてしまう。
 さてこの後どうしようか、そのまま両親と一緒に農業をすることも考えたが増やした農地もそんなに収穫が見込めないので、「よし、もう一つ手に職をつけよう!」と建築板金の仕事に就く。
 厳しい職人の世界で鍛えてもらおうと張り切って張り切りすぎて、2ヵ月後骨折。仕事できないのでぶらぶらと遊んでいた。
 その頃、親がりんごをつくるのをミョーに頑張っていたいたので、「ただ農協に販売委託するんじゃなく、直接販売もしてみたら。」とサイトを立ち上げ、販売のノウハウをあれこれと考えていた。
事件が起こった!
 親父が胃潰瘍で入院した。こうなると増やした不良園地もなにもかも作業の手が足りない、ということで板金の社長に説明し、辞職そのまま林檎園の手伝い。そのかたわらりんごの産直販売。
 
ガーン、またまた事件が起こった!
 親父の胃からガンが発見されて「命が欲しいなら手術が必要」と医者に言われる。その通り手術することになり、そんなことだから林檎園の経営も任されてしまう。と同時に祖父があの世へ旅立った。
 親戚の紹介で「青森県りんご産業基幹青年」という勉強の場を与えられて、24期生としてりんご産業発展のために努力することを誓い今に至る。

 途中で説明を忘れたが、『くらや』のネーミングは母親の案で付けられた。この家はその昔「馬の鞍」を作っていたらしい。この辺の古い人はいまだにうちのことを「くらや」と言うし。

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